@article{oai:hirokoku-u.repo.nii.ac.jp:00001215, author = {甲田, 純生}, issue = {7(改題第2号)}, journal = {広島国際大学基盤教育センター紀要, The Bulletin of Basic Education Center, Hiroshima International University}, month = {Mar}, note = {application/pdf, 本論考は、「教育とは何か」という問題を考える手がかりを聖書とフロイトの精神分析に求める。聖書は教育のあるべき姿を、そして精神分析は教育のメカニズムを教えてくれるからである。旧約聖書の「天地創造の物語」は、神がこの世の主であることを告げている。これは、人間がこの世の主ではないことを意味する。教育においても同様である。教師は教育における主ではない。教育において、子どもは自らが内包する生命力によってこそ成長するのであり、教育とは「教え育てること」ではなく「教え、そして育つ」ことなのである。子どもが「育つ」というのは、子どもたちが高みへとのぼっていくことであるが、教師は子どもたちの「学びへの欲望」を起動することで、子どもたちに高みを目指すよう促す。「世の中には、君たちの知らない世界がある。私はそれを烈しく希求する」。教師がこのように振る舞うことで、教師が欲望するものを子どもも欲望する。それによって、それぞれの欲望のべクトルが同じ方向を向くことになる。これが、教育が成り立つメカニズムである。}, pages = {145--153}, title = {教育とは何か}, year = {2022}, yomi = {コウダ, スミオ} }